第五章・いのちの時代 連載第百十二話 「一晩中縛った緊急時」先輩との夜勤の思い出

その夜は、あの、沖縄の先輩と、二人の、夜勤だった。
ひとりの、利用者さんが、いた。小柄な、けれど、すばしっこい、方だった。統合失調症を、患っておられた。目を、離すと、何を、するか、わからない。夜に、なると、落ち着かなくなる。その夜も、ナースコールを、鳴らし続けた。一時間に、十回。いや、もっと。鳴っては、行き、鳴っては、行き。彼と、先輩は、長い廊下を、何度も、往復した。
そして——最後に、鳴った、とき。
部屋に、行くと、その方の、姿が、なかった。
いない。どこにも、いない。彼の、背に、冷たいものが、走った。施設の中を、探した。すると——別の、入居者の、部屋の、窓から、外へ、出ようと、しているところを、見つけた。
そこは、二階だった。
その窓から、外へ、飛び降りれば——どうなるか。下は、固い、地面だった。骨を、折る。打ちどころが、悪ければ、命を、落とす。下手をすれば、死亡事故に、つながる。間に合わなければ、取り返しが、つかない。彼は、血の気が、引いた。
彼は、先輩と、相談した。
そして、苦渋の、判断を、下した。これは、緊急時に、あたる。やむを得ない。——車いすに、抑制する。つまり、その方を、縛る、ということだった。
縛る、という言葉が、彼の、胸に、刺さった。
人を、縛る。動けないように、固定する。それが、どれほど、重いことか。その方の、自由を、尊厳を、奪うことに、ならないか。本来、あっては、ならないことだ。けれど——縛らなければ、外へ、出て、命を、落とすかもしれない。守るために、縛る。その、矛盾を、彼は、抱えた。きれいごとでは、済まなかった。正しい答えなど、どこにも、なかった。ただ、その方の、命を、守る。その一点で、彼と、先輩は、手を、動かした。
それからは、長い、夜だった。
車いすに、乗せたまま、彼らは、看た。時間が、来れば、排泄の、処理。体の、向きを、変える、体位交換。見回り。痰が、絡めば、吸引。一つずつ、こなしながら、その方の、様子を、絶えず、うかがった。縛られた、その人の、傍に、二人は、一晩中、いた。
沖縄の先輩は、厳しい人だった。けれど、その夜、二人は、ただの、戦友だった。年の差も、指導する者と、される者の、隔ても、消えていた。同じ、修羅場を、同じ、夜に、二人で、くぐった。言葉は、少なかった。けれど、互いの、判断を、信じて、動いた。あの夜の、先輩の、横顔を、彼は、今も、覚えている。
四十年後の今、振り返って、思う。
今と、なっては、思い出だ。けれど、当時は——大変な、どころでは、なかった。体が、つらかったのは、もちろんだ。それ以上に、人を、縛った、という、その重さが、胸に、残った。あの判断は、正しかったのか。今でも、わからない。ただ、あのとき、ほかに、守る方法が、なかったことだけは、確かだ。介護とは、答えの、出ない問いを、抱えたまま、それでも、手を、動かし続けることだった。あの、縛った夜が、彼に、それを、教えた。
その方も、今は、もう、この世には、おられないだろう。どうか、安らかであってほしい、と、彼は、願う。あの夜、縛ってしまったことを、心のどこかで、今も、詫びながら。
生かされて、今を、存在する。
すばしっこいその方を、命を守るために縛らざるを得ず、沖縄の先輩と二人、一晩中その傍に居続けた、あの長い夜を、四十年後の今、自分は、確かに、覚えている。
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